芋 掘 り 藤 五 郎 

 芋掘り藤五郎は藤原家の五男坊で、芋を掘ったさかいに芋掘り藤五郎ということになった。
 藤五郎は京都の生まれで、山科の静かな所へ隠棲したと。京都があんまり繁華でうるさくて、どっかいいとこ ねぇかと言ってやって来たら、京都に対して山科とよう似た地面やと言うがで、自分の故郷を偲ぶために、 ここを山科と言い、伏見と言い、新保、吉住、小原と名付けたと。
 わしの聞いたのは違うがや。藤五郎は京都から嫁さんを貰ったと。京都の嫁さんが夢のお告げで、「加賀の 国に主人になる人がおるさかい、そこへ嫁に行け」と言われたがや。そして来たわけや。そしたら、やっぱり 京都生まれの女やもんで、特に淋しいやろうさかい、藤五郎が山科とか伏見新とか京都の地名を押し付けたと 言うがに聞いとる。
 夢のお告げで貰ったことは貰ったが、お嫁さんは大和の国の長谷(生玉)の方信という富豪がおったといや。 ところがその富豪が子なしで淋しくて困ったと。そしたら、長谷の観音様に願をかけてお祈りしたところ、 観音様の申し子で玉のような娘の子が生まれたと。その娘を名付けて和五と名付けたと。そうして、その娘 が 太ってきたけれども、富豪ばっかしなんであまり貰い手がなかったと。ほれから、これは観音様の申し子やさかいに、観音様にまたお尋ねしなぁならんと、観音様にお尋ねしたとろが、
「加賀の国山科の里に藤五郎という者が居ると。それがお前の夫である」と言うお告げがあった訳です。

地元の人は、藤五郎を大切に祭っています。
(山科町へ41-55隣り)

藤五郎と和子の立像(山科町)藤五郎が住んでいたと言われる山科村伏見の里は、この辺りだった ようです。( 山科町ヌ101付近)

金城霊沢 藤五郎が砂金をここで洗ったということで「金洗沢」と
言われ、ここから「金沢」の地名が生まれたと言われています。


 そしてはるばる富豪の娘やさかいに、でけぇこと財産を積んで、ほしてやっ て来たけれども、まことにみすぼらしい小屋に藤五郎ちゅう男が住居しておったと。
 そしたけれども、観音様のお告げやさかいに、そこへ納まらんと気がすまんと。そしたら藤五郎は非常に 欲の少ない人なのです。施しを好むという立派な精神の持ち主で、
 「財宝くらい、わしゃぁ問題でねぇ」
と言うて、田んぼに下りてる雁にその財宝を蒔いたと。金銀・小判とかそういうもんでしょうね。それだけ 欲がなかったと。
 「わしゃぁ、山へ行ってれども、いくらでも山から出てくる」
と。藤五郎はずうっと自然薯(じねんじょう)を掘っていたと。ずうっと山科から公園(兼六園)の辺りまで、 小立野台から公園まで、今の公園は山崎山と言うからね。あの辺りまで芋掘りに行ってはそしてあこで芋洗うたら、 今、金城霊沢という湧き水が出て来たと。芋洗うたら砂金が出てきたと。
 藤五郎の生い立ちが藤原家という訳で、立派なもんじゃさけぇに、地頭職に就いたってね。
 相変わらず欲がなかったってね。

(金沢の昔話と伝説 昭和56年3月31日発行/金沢市教育委員会・金沢口承文芸研究会 発行)より

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