加 賀 介 富 樫 氏

 林氏と同じく、藤原利仁(としひと)の子孫である富樫氏が、加賀国で勢力を拡大したのは、 天皇が鎌倉幕府を倒そうとした「承久の乱」1221年の後です。
 それまでは、「富樫郷」(高尾町、泉野町から三馬・久安の範囲)を支配していましたが、 力は林氏には及びませんでした。代々、加賀介(介は長官の次の位の人、次官)は京都と富樫郷に屋敷をかまえて仕事を司っていました。そのため富樫郷近くには、山科・伏見・高尾といった京都にならった地名が見られるのです。四代目の忠頼(ただより)は、特に名君のほまれ高い人です。『金沢』命名に 関係ある伝説『芋掘り藤五郎』は、実は忠頼ではないかとも言われています。
 富樫氏は「源平の争い」では源(木曽)義仲に味方しました。12代目の泰家(やすいえ) が、義経と弁慶の主従の固い結びつきに同情し、「安宅の関」を通してあげたという話が能の『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』で後世に伝えられています。1335年(建武2)17代目の高家(たかいえ)は足利尊氏につき、戦いで手柄をたてました。それで、尊氏から加賀国の守護職に任じられました。 その後も代々、守護として加賀国を治めました。
 北陸鉄道石川総線の野々市工大前駅のすぐ横に「富樫館跡」と書かれた大きな石碑が立っています。 この石碑から長い間、加賀国で栄華の時を刻んだ富樫氏をかすかにしのぶことができます。


安宅の関『勧進帳』左より義経、弁慶、泰家
写真中央が高尾城址(高尾山)
富樫館跡石碑 富樫高家が守護職を命じられ、野市(野々市) の館に守護所を置いた。
約400年間加賀の治世を行われた


高 尾 城 と 富 樫 政 親

 1441年(嘉吉元)、京都において守護赤松満祐(みつすけ)が将軍足利義教(よしのり)を暗殺しました。この嘉吉(かっき)の乱をきっかけに、 富樫氏では政親(まさちか)と幸千代(こうちよ)兄弟の間で守護職をめぐって争いが起こりました。
 この争いが激しくなってくると、政親は館(野々市町)を整備し、その背後にそびえる高尾山に山城を築きました。 これが『太平記』にいう富樫ケ城(とがしがじよう)であり、高尾城(たこうじょう)です。
 富樫氏の争いに越前の朝倉氏や甲斐氏が加わり、さらに本願寺門徒も巻き込んで、いっそう激しさを増していきました。
 この富樫氏の争いは1474年(文明6)兄の政親が弟幸千代を破り決着します。そして政親は、加賀一国の守護になりました。
 政親はその後、本願寺門徒の力を嫌い、門徒の弾圧者に変わっていきました。1487年(長享元)、 将軍義尚(よしひさ)が近江の六角高頼(たかより)討伐に出陣すると、政親は家臣・侍衆を率いて出陣します。そして、兵糧米や人夫を 農民に割り当てました。これに反対する一向一揆農民門徒は、政親に反旗を翻しました。
 1488年(長享2)鳥越弘願寺・吉藤専光寺・木越光徳寺を指導者に、州崎慶覚(すのさききょうかく)を大将とした一揆軍は、 政親が率いる高尾城を攻撃しました。この攻撃で守護の政親は倒されてしまいました。これがいわゆる長享の一揆です。
 こうして、守護富樫政親の滅んだ加賀の国は「百姓のもちたる国」といわれるようになり、一世紀にわたる坊主、 土豪、農民たちによる加賀共和国が成立しました。

(こども金沢市史 金沢市発行:平成14年10月発行 より)

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